上永谷 (かみながや) | ||||||||||||||||||||||
まず、昭和51年に市営地下鉄上永谷駅が開設されました。 昭和60年に舞岡まで延伸する前は上永谷が地下鉄の終点(当時の地下鉄は上永谷〜横浜)でした。 当時、回りは造成中、駅前広場なんてもちろんなく、丸山台の住宅街もありませんでした。 しかしながら北の山の方は虫食い的に住宅街は出来上がっていました。 少し歩いた、野庭団地では既に分譲が始まり、人が住み始めていました。 野庭団地はできたての頃(昭和48年)は上大岡駅までバスで行く手段しかなく、 日の出から日の入りまでくっきり分かったほどだといいます。 そしていよいよ、昭和57年に駅前広場が完成します。バスターミナル・ベルセブン・ イトーヨーカドー・ラポルトビル等も完成、現在の駅前の形ができた訳です。 丸山台の住宅街も徐々に完成し、駅前にも賑わいができ、現在の上永谷になった訳です。 上永谷は、駅が開設されてから約25年と割と新しい街ですが、 街の好感が持ちやすく、評判も良いようです。この街の雰囲気も後世へ継承していきたいものです。 |
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お馴染みの上永谷駅です。あざみ野延伸以前はここが唯一の地上駅でした。 上永谷駅の1番出口(ベルセブン口)です。上永谷駅から駅前広場に行くときはこの1番を使います。 一方、反対側の2番出口は、タクシーのりばがすぐ下にあり、少し歩けば港南図書館へも行けます。 2番出口は数年前にエレベーターが新設され、かつての形とはまったく変わってしまい、 近代的な駅の出入口になりました。2番出口を写真に撮っておけば良かったのですが、 こちらの方が撮りやすいので…ってことになりました… 3番出口というのもあります。ご存知でしょうか?なかなか陰の薄い出入口です。 これは、ベルセブンができる以前は、丸山台方面へはこちらがメイン出口でした。 ベルセブンよりも先にバスターミナルができてしまった?ので、 3番出口に出ると、前のラポルトビルの飲食街の入口に「バスターミナル近道」という看板があります。 かつてはこちらを通ってバスターミナルに通るのが近かったようです。 同時に現在の2番出口も使っていたのですが、ものすごい形に格差があります。 現在は、ベルセブンの連絡歩道橋(上永谷駅前歩道橋)の下に行けます。 |
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上永谷駅開設と同時にできたのが、この「横浜市交通局上永谷車両基地」です。 ゆりの木通り沿いを歩いているとここを見ることができます。 現在、車両基地は新羽にもできましたが、あざみ野延伸以前は車両基地はここだけでした。 ちなみに、後ろに写る車両は3000N形で、市営地下鉄の最新車両です。 |
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ご覧の通り、丸山台の住宅街は街並みがなんともきれいです。 虫食い造成でできた街並みをいつも見ているだけに、余計目が輝いてしまいます。 割とここは新しい街です。ベルセブンの東京三菱銀行前にも 前々横浜市長の細郷道一氏筆の「新しいまち 丸山台」の碑があります。 港北ニュータウンの方に来ているようです。未だにここの地区の土地のお値段は高いです。 管理人も丸山台にぜひ住んでみたいものです。 |
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環状2号は磯子区の屏風ヶ浦から新横浜を通って、鶴見区の上末吉までつながっており、 1998年に暫定開通、2001年に全面開通しました。 写真は天神歩道橋から平戸方面に向けています。 上永谷地区は道と道の間に平戸永谷川が流れています。 これは戸塚や大船などを流れている柏尾川の上流にあたります。 さらに馬洗橋から上流のことを「馬洗川」と呼んでいます。 最近では、ここはラーメン街道になっており、下永谷の方では路上駐車があってなんとも迷惑です。 夜も暴走族が通りますから、うるさいものです。 ですが、今までよりも上永谷への車でのアクセスが格段に良くなりました。 |
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永谷天満宮は,永谷の天神さまとして親しまれ,菅原道真が,自分の姿を鏡に映して自分で刻んだ,三つしかない木像のうちの一体をもつ神社として,知られています。 菅原道真は,平安時代の人ですが,醍醐天皇の信頼が厚く,時の支配者である藤原氏と対立し,延喜元年(901)九州の大宰府に流され,延喜三年その地で亡くなりました。 文学や文章を書くことに,すぐれていましたので,学問の神様といわれています。 菅原道真には,十三人の子どもがおりましたが,その第五子淳茂は, 父の才能を受けつぎ菅秀才と呼ばれるほどで,父の道真も大いに期待し, 三体の道真像のうちの一体を,そっと渡していたのでしょう。 父の道真と共に,子どもたちも都から各地に追放されました。 伝説によると,敦茂は永谷の郷に移されたということです。 菅秀才敦茂が,相模に住んだという記録はありませんが,いまの上永谷の天神山のふもと, つまり,現在の貞昌院あたりに住んでいたと伝えられています。 敦茂は,天神山の頂上に立ち,はるか遠くの九州太宰府の父,道真公をしたいながら, 朝夕のご挨拶をされたということです。 山の上には,敦茂が愛用した筆や,髪の毛を埋めたとも伝えられる,菅秀塚の碑があります。 むかし,その塚の上にあった杉の老木を切ったところ,村の人びとがケガをしたり, 病気になったりしたと伝えられています。 菅原敦茂がいつ生まれ,いつ死んだのか,くわしいことはわかっていません。 文章博士や,そのほか重要な役目につぎつぎとつくなど,親子二代の学者として有名でした。 道真像は敦茂から多くの人を経て,上杉乗国に伝えられ,夢のおつげによって,明応二年(1493)ここに社を造り,ご神体としておまつりしました。これが現在の永谷天満宮です。 外の二体の道真像は,道真のお墓のある福岡県の安楽寺と, 生まれたところの大阪府の道明寺にあります。 (以上、港南区ホームページより引用) 1の写真は天満宮・2の写真はかながわ名木100選になってるカシ、3の写真は裏山からの眺め・ 4の写真は裏山の頂上にある文章中にも出てきた菅秀塚(浅間神社)です。 天満宮右手には横浜市の名木古木指定になっている、イチョウの巨木もあります。 3の写真においては、目の前がマンションになるので眺めは変わってくるかと思います。 |
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